Sayonara Komaba

さようなら、と言うにはまだ(未だ)気が早い。

まだ駒場にいるの?!??!

と言われ続けて、もう7-8年経つ。

東大生にとって駒場は、大学生生活を始めるデビュー舞台だから、本郷に比べてもさらに古き良き思い出の場所かもしれない。卒業生はもちろんのこと、後期教養ではない多くの学部生にとってもそうであろう。空間であれ時間であれ、それが過去になって初めて「古き良き思い出の」と形容できるようになる。誰かの「古き良き思い出の」駒場に、私は今もいる。

日本に住むなら、せめて駒場に通える場所じゃないとイヤ

私がそう宣言したのは、もう駒場に行かなくなっていた時のことだった。今通っていなくても、いざとなれば通える場所にというのが、日本に住む私のボトムラインだった。明らかに、私にとって駒場の持つ意味は、現役駒場ユーザーの、もしくはユーザーだった誰とも、だいぶ違う。普通の人なら「疲れたから帰る」と言って家に帰るだろうが、私は「疲れたから帰る」と言って駒場に帰る。日本で唯一ホームと呼べる場所が私にあるとしたら、それは駒場だった。駒場は私のホームだった。

当たり前のことだが、駒場が最初から安心感のある場所だった訳ではないし、過ごした時間が長い分、特に良い思い出ばかりでもない。それでも駒場が、私にホームと感じられる場所になった最大の理由は、「行けば誰かがいるから」だったと思う。もっと正確には、「行けば誰かがいる」から、私は駒場をホームにした。そしてそこで過ごした時間が蓄積すればするほど、最初「行けば誰かがいる」だけの場所だった駒場は、「行けば私のことをよく知っている誰かがいる」場所になった。家族も、地元の友達も、高校の同期もいないこの国で、私を最も古くから知っている人たちは皆、駒場の人だった。


駒場が幸いにも、私の安全基地であり続けたこととは別に、大学としての駒場は、私の中で廃れて久しい。私が学び尽くしたからではもちろんない。ここで私が「大学としての駒場」と呼んでいるのは、リアルな意味ではなく、ある種の記号としての「駒場」、私にとって「駒場」が象徴する学びに近い。

私が入学した時、駒場は「タフグロ(タフでグローバル※濱田純一総長のスローガン)」の時代だった。東大生に散々揶揄された「タフグロ」であるが、そもそも留学生も少なくPEAKすらなかった当時の東大に「タフグロ」は、信じられない今更感は問わずにおくとして、時代精神としてそれなりの正当性を得ていたと私は思う。全くタフグロじゃないからタフグロを時代精神とした東大に入学した外国人留学生の私は、その属性から既にタフグロそのものだったし、タフグロを目指させられた東大生に囲まれ交わりながら、日々さらにタフグロになっていった。そんなタフグロ時代の東大で、まだ比較的タフグロな環境とタフグロな学生(またはタフグロ志向の学生)が集まる場所が、駒場だった。入学当初、法学部政治コースへの進学が決まっていた私は、進振りのタイミングで文科省に撤回宣言をし、駒場に残った。その選択を後悔したことはない。

駒場のタフグロさは、確かに、私にとって比較的心地良い環境だった。海外志向の学生が多いだけ、みんな興味関心も近く、話しているとすぐに会話が盛り上がる。海外のことに興味を持っていて、よく知っている分、自分のこと、自分のカルチャーを相対化でき、少なくともそうしようとする意識のある人が多いことが、その比較的な心地良さの背景にあったと思う。

そのタフグロさがつまらなくなったのは、結局それが、私のスローガンでは最初から有り得なかったことと関連しているかもしれない。「タフグロ」を英語でそのまま言っても通じないのと同じく、タフグロはあくまでも一般的な東大生、つまり、日本で教育を受けてきた日本人学生向けのスローガンだった。同様に、駒場のタフグロさも、あくまで日本という文脈の中でのタフグロさだったことに、徐々に気がついていったのだ。


社会人になって、駒場をひどく恋しがった時期がある。しばらく通っていなかった駒場に、週末にまたぼちぼちと出るようになり、挙句は、会社を辞め、フルタイム学生としての帰還を果たしてしまった。3年ぶりに戻った駒場には、3年前とほぼ変わらないタイプの駒場人種が、世代だけ交代されて入っていた。壁面高く飾られている金正恩の肖像、夏は国際法用語の混じった冗談が、冬は国際政治用語の混じった冗談が飛び交う、あぁこれぞ駒場・・・。社会人になってからは、言うことも聞くこともなかった懐かしきノリに、私は完全に舞い上がっていた。

そんな私に冷水をかけたのは、駒場とは全く無縁な友人の言葉だった。週末に駒場に行ってきたことを楽しげに話すと、友人は全く感心していない顔で言った。「そういうノリって、私にはファッションにしか聞こえない」と。その言葉が一気に掘り起こした、つまらない駒場の思い出。駒場のどうしようもないつまらなさは、駒場の楽しさと常に表裏にあった。今私、「何を偉そうに」と思われたのだろうか。

壁にかかっている金正恩の肖像を見て笑って、笑ったことすら忘れているならば、それは、日本人であるあなたの特権だ。実を言うと私も、何度もクスッと笑った。私くらいの世代であれば、韓国人の誰を連れてきても、おそらく同じ反応をしたと思う。運悪く、南北緊張局面に兵役に行ってしまい、色々めんどくさかった経験のある韓国人男でも、あの肖像画の掛かっている様子を見たら爆笑すると思う。金正恩と北朝鮮にまつわるジョークを世界一言っているのは、駒場人じゃなくて韓国人なんだから。

私が、その壁を見て笑って、笑ったことについて考えてしまうこと、他の駒場人の反応を無意識に見つめてしまうこと、世界のヤバいならず者国家をネタに盛り上がり、洞察と気付きを得る平和な毎日に、たまらない楽しさと、どうしようもないつまらなさを感じる。第一戦線から引き下がって久しい私の、この楽しくてつまらない日常に感謝する。ここはセーフ・ヘブンなのだ。私の戦場じゃない。


リベラル、反骨精神、批判的思考・・・記号としての駒場の風通しの良さをなんと呼ぶにせよ、それらは全て、ある種のベクトルだと考える。ベクトルは、基準点があって初めて、向きを説明できるようになる。座標(-10,0)に立っている人からして座標(0,0)は右にあるが、座標(10,0)に立っている人からそれは、左である。また、同じx>=0でも、座標(10,0)からして座標(5,0)は左にあるが、 座標(1,0)はそれよりもさらに遠く左にある。向きと距離を決めるのは、その主体の立っている場所である。人生で少なくとも二つの座標を経験した私は、移動してきた二つ目の座標の上で、アンビバレントな感情と戸惑いを覚える。

日本の伝統的なリベラルに広く共有されるセンチメントの根幹に、ナショナリズムへの警戒があると思う。戦後日本の思想世界の基準点がどこに置かれたかを考えれば、非常に納得可能なものである。私が経験したことのある一つ目の座標には、日本で言われる意味での戦後という概念がない。代わりに、解放後、そして民主化後というマーカーが、思想世界を区分ける軸となっている。日本という文脈の中でナショナリズムは警戒すべきものとされ、また、その比較的広いスペクトラムが保守と結びついて理解される。日本においてナショナリズムは危険なものとして連想されるが、右も左も「解放後」というマーカーに源泉を置く現代韓国において(※右については論争の余地があるが、ここでは立ち入らない)、ナショナリズムは共有された土壌であり、前提である(はずである)。多くの日本人が韓国の「過激なナショナリズム」からとりわけ「反日」を連想するとき、そのいわゆる「反日」の性質が実体として韓国の保守派ではなくリベラル派を差していることを自覚する人は少ない。ベクトルは基準点があって初めて、向きを説明できるようになる。日本人のナショナリズムへの批判を、そのまま韓国にスライドさせることはできない。二つ目の座標に立っていながら、一つ目の座標を思い出す私は、駒場人が世界のヤバいならず者国家をネタにする時、どうしようもないつまらなさを感じる。

さよならはいつも、すぐそこにあったのだろうか。

※私が「駒場」と総称している空間の実体は、主に8号館、中でも総社部屋と総社コミュニティのことを指している。タフグロに対するもどかしさも実は、私が駒場の中ではある意味最も駒場っぽくない総社で最も長い時間を過ごしたことに起因するかもしれない

※「タフグロ」は、駒場の雰囲気を説明するために用いたが、正直駒場においてさえ古臭く、そこまで広く共感・共有された節もないので、自分でもあまりしっくりこない。しかし他に良い表現が思いつかなかったためそのままにした

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