「反日/親日」という、めんどくさい話(3)
ここから大事な話。私の目には、日本で言う「反日/親日」という言葉と、韓国で言う「反日/親日」という言葉の意味があまり合致していないように見える。日本の人が韓国の「反日」さを訴えてくるとき、それが私にそもそもの意味からピンと来なかった理由は多分、ここにある。日本人と韓国人が、「反日/親日」という言葉を同じ意味で使っていた時代は、終戦/解放と共に終わった。私のイライラも、ここからくるものだったと思う。
どういうことなのか。私が知っている現代韓国で、「反日/親日」という言葉と概念が最も頻繁に使われる場面は、非常に、国内的である。確かに、「反日/親日」と言う時の「日」は日本を指すということまではそうだが、そのほとんどの場合は、歴史的な主体としての「日本」、つまり韓国を35年間植民地支配した帝国日本と、それと結びついたまま解放78年目を迎えた今もなお深刻な分裂の種になっている韓国国内勢力のことを指す。今年春に書いたSayonara Komabaで、現代韓国の思想世界は解放というマーカーに原点を置くという話を言及したが、まさに、「反日/親日」は、韓国の左右の陣営対立において、各陣営が相手陣営を批判する時に使われるレトリックである。その「反日/親日」というレトリックが飛び交う時、そこには確かに、帝国日本という植民地支配の亡霊が見え隠れするのだが、日本の人が頭に思い浮かべるであろうイマのニホンという概念、ましてや、ニホン「人」という概念とは確実なズレがある。
特に、民主化を牽引したことを自負とする韓国のリベラル派が、保守派を「親日だ」と批判する場面で、この「反日/親日」レトリックの典型を見ることができる。ここで「親日だ」という時の「日」が含意するのは、「植民地支配によって生成された負の遺産を清算しようとしない国内の既得権層」と理解して良い。リベラル派に言わせれば、韓国の保守は、植民地期に帝国日本という力の原点によって力を付与されて誕生した既得権層と癒着して、今もなお抑圧的で搾取的な構造と格差を再生産する勢力なのである。そう、だから「親日」は、韓国で「反日」以上の悪口なのであるが、それは、日本の人が想像する意味でではない。繰り返しになるが、韓国で「親日」というレトリックが矛先を向けるのは、国内における植民地支配の負の遺産であり、ポストコロニアルな意味での、植民地支配が終わった今もなお厳然と続いている植民地主義に対する批判、植民地主義が残した抑圧と搾取の構造に対する批判なのである。これが、「親日」を退けようとする、韓国の「反日」である。
この文脈を知らないまま、韓国の「反日」さを訴えられると、まず第一に戸惑いを感じ、それに続いて、苛立ちを覚えざるを得ない。日本人と韓国人が、「反日/親日」という言葉を同じ意味で使っていた時代は、終戦/解放と共に終わった。帝国日本の植民地政府がいなくなった、解放後の韓国を生きる人たちは、今もなお植民地支配が国内に残した分裂軸を巡って、互いに激戦を繰り広げている。この左右の対立と亀裂は狭まるどころか、いつよりも深まり、広まっているようにしか見えない。日本の人から「反日」を訴えられたとき、その意味があまりピンと来なかったのは、この激戦中に思い浮かべる「敵」の顔の中に、あまりイマのニホンのことや、ニホン「人」のことは入っていなかったからだと思う。一方で、韓国が解放以来一度も抜け出したことのない、ポストコロニアルな現実の沼に対する、イマの日本人の無理解、その無頓着さに、私が理解している意味とはどうやら違う意味で「反日」という言葉を投げかけられて初めて気がつき、苛立ちを覚えるのである。
確かに、この激戦の中で、イマのニホンが全く関係がないかというと、そんなことはない。これが多分、この話を余計めんどくさくする最大の要因であろう。いかにも韓国国内的な文脈を持って繰り広げられる激戦の中で、イマのニホンは、帝国日本という主体の歴史的後継者として、何度も召喚されてきた。解放後まもなく朝鮮戦争、南北分断、軍事政権、と続く抑圧的な現実の中で、経済成長を優先するスローガンのもと清算されず封印されてきた人権問題は、民主化後、散発的に噴出するようになったものの、韓国国内政治の事情と国際情勢の都合により、その多くが一度もスッキリする決着を見ないまま、今に至っている。そして、その時間の積み重ねと、その間にもっと複雑化した国内政治と国際情勢により、もはや、何がスッキリする決着なのかも分からなくなってきたのが今の状況のようにも思える。
そんな過去のこと、割り切ればそれまでの、日本の人を心から羨ましく思う。このめんどくさい話がめんどくさくて回避しようとも回避しようがない韓国の現実を生きる私が、日本の人が「反日/親日」の話を持ち込むたびに笑い飛ばしてでも回避したい気持ちだったのは、もはや記号化した「反日/親日」をめぐって分裂を極める韓国国内だけでも、清算しなければならない課題が山積しているからである。日本の人からすれば、過去のことを何度も蒸し返してくる国のように見えるだろうが、過去が過去のままにならず、何度も蒸し返されるのは、それが韓国国内では何も過去のことになっていないからである。これをどう説明すれば、と考え始めると、すでに吐き気がするほど疲れる韓国の政治現実を思い出さねばならないのと、日本でよく使われる「反日/親日」フレームの薄っぺらさでは、こんなにめんどくさい文脈を説明しようがなかったのである。ここまで書いて疲れたので、書ききれなかったことは次の投稿に譲ることにする。