「反日/親日」という、めんどくさい話(序)
めんどくさい話をしてみようと思う。
どれだけめんどくさいかというと、私がこの種の問いと出会ったのは2012年春で、それがきっかけの一つになって学部のとき専攻を変えたと言っても過言ではないのだが、結局私は向き合い続けることができず、アカデミアの世界に出戻りした今は、分野もテーマも変えてしまった。もっとちゃんと磨いて、それまでの蓄積を掲載論文にでもしておけばよかったなと思うこともあるが、私は未熟ながらも頑張って温めてきたそのタネを早くも捨て去った。私の中では埃積もった、このめんどくさい話を今更どこかに載せるとしたら、ブログの記事くらいがちょうどいいかもしれない。
めんどくさい話というのは、「反日」と「親日」についての話である。ここまで書いただけでも既にめんどくさくて筆を投げてしまいたい気分になるのは、私がこのことを書いたり話したりするたびに、またまた、「日本人」である聴者と「韓国人」であるワタシの、この、属性の距離感と断絶感だけが先に、そして過剰に意識されて、言葉の意味が届く前に遮断されたり、歪曲されたり、逆に発信者の私がそれを恐れすぎて対策をとるつもりが、言葉を発する段階でそもそもの意味をも曲げてしまう屈折が起こったりして、伝えたいことが伝えたいように伝わらないことがほとんどだからだと思う。今は周りの人に「なんかジェンダーやってる人」と思われているようだが、実は私は、大学を一度離れる前までは「ナショナリズムとか戦前の思想とかをやってる人」だった。
私が「反日/親日」の問題と出会ったのは、2012年春、東大の新入生になったばかりの頃、オリ合宿に行くバスの中でだった。そのバスの中で私は、その後修士課程が終わるまで7年間も続く全ての問いと出会った。
韓国では「反日」教育をするらしいんだけど、日本についてなんて教わるの?
これがその一つ。自分の声も聞こえないくらい騒がしかったバスの中が一気に静まり返り、その場にいた同期、先輩問わず、私の返事に耳を傾けた。私がその時どう答えたか覚えていない(本当に)。まだ日本語にもカルチャーにも不慣れで自信がなく、突然集まった耳目に萎縮してしまった、まだ二十歳にもなる前の私。記憶に残っているのはその空気感と圧迫感だけ。
日本を出てしまったら、このことについていつか書いたり話すことはあるだろうか、そう思ったりしている今、最初で最後になるかもしれないと思いながら、この話をまとめてみたい。そして、これと関連する問い群を研究では置き去りにしてしまって以来、日本で「反日」とか「親日」とかいう言葉と遭遇するたび、9割以上は見て見ぬふり、聞いてないふり、なんならもう相手の偏見のフレームに便乗してまで適当に笑って誤魔化してきたくせに、むしろ私が心を許した親密な人たち、しかももしかしたらその「反日/親日」のさらに向こうにまで関心を示してくれていたのかもしれないもっと若い方々の前で、日本で暮らす13年間悪化させた私のトラウマボタンが押され、この問いに過去そう短くはない間それなりに誠実に向き合ってきた者として説明責任を果たす遥か前に、軽率にもイラっとしてしまったことへの後悔も込めて、辛抱強く綴ってみたい。
本論に入るまでに前置きが長い文章になる。13年間悪化させたトラウマとか言い放ったが、私がこの話を今になってやっと、初めて書けるのは、過去のいつよりも、日本が私の親密圏の中にグッと入ってきているからだと思う。口を開けた瞬間、じよんではなく韓国人という属性に成り下がり、何も届いていなそうに見えた2012年と違って、韓国人という属性を含めるがそれが決してじよんそのものを上書きはしない形で、ワタシとして受け入れてもらっている感覚があるからこそ、このめんどくさい話をしてみようというつもりになれた。その日本への親密さ、私の親密圏の日本、受け入れてもらっているという感覚を頼りに、この話を初めてコトバにしてみようと思う。これを読んでいる日本語話者のあなたが、私の親密圏にいる誰かだと想像して書いてみるので、願わくば、こんなワタシを信じて、私とあなたが同じではないものの実はそう異なる存在でもないということを頭の片隅に置いて、読んでもらえると嬉しい。